COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2014年6月2日 更新(連載第35回)
Leg8
ソフィスティケイトなスタイル そんなダンディの長かった苦闘のエレジー
谷内太郎

Leg8 谷内太郎(2)
「レストランバーの店長になっていた」

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13年シーズン第9戦で悲願の初優勝を遂げた谷内太郎は、12戦の広島で2勝目を挙げると上位争いに喰いこみ、総合ランク5位で最終戦を迎えた。

すでに年間総合1位は山田勇樹、2位は浅田斉吾に確定していたが、3位以下は混戦。3位小野恵太は635ポイント、4位山本信博は634ポイント。592ポイントで後を追う谷内は優勝すれば3位、優勝できなくても小野、山本の結果次第で3位をもぎ取り、幕が開きかけていた「4強時代」に待ったをかけることができる。

勝てば年間3位

山本、小野にとっても4強死守は至上命題。重圧のかかる最終戦で、山本は3回戦、小野は4回戦(ベスト32)で伏兵に屈した。

残る谷内は順当に駒を進めベスト4で王者山田と激突することになる。勝てば年間3位、負ければ5位。「4強」を倒すことへの拘りはなかったが、「ここまで来たら3位を取って面白くしたろ」という気持ちは強かった。なにより、王者山田を倒したい。年間を通じて取り組んできた、ここ一番の勝負強さの真価を試される闘いとなった。

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2013 PERFECT【最終戦 千葉】
準決勝 第1レグ「501」

谷内 太郎(先攻)   山田 勇樹(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
S20 S20 T20 401 1R T20 S20 T20 361
T20 T20 T20 221 2R T20 S20 T20 221
S20 T20 T20 81 3R T20 T20 T20 41
S19 T12 S13 13 4R S5 D18 WIN

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準決勝第1レグは谷内先攻の501。第1Rで100Pしか削れず、140Pの山田に後れを取った谷内は、続く第2Rで140Pを削り同点に追いついた。

第3Rで谷内は再び140Pを削りto go 81。後攻めの山田はton80でto go 41としたが、先攻の谷内が圧倒的に有利な展開となった。

迎えた第4R。T19のアレンジにいった谷内の1投目はシングル。2投目はT12をきっちりと決めアレンジに成功し、残り26P。

が、3投目。レグショットとなるD13に向けて放ったダーツはターゲットの1ビット内側に入り万事休す。後攻の山田にブレイクを許した。

第1レグを振り返って谷内は言う。「純粋に、勝負弱さが出たんじゃないですかね」

3投目に向かうとき、1レグ目を山田に渡したくない、という気持ちが強かった。これまでの敗戦を想い、キープして落ち着きたいという弱気がでた。無心ではなかった。

3投目を投げた瞬間、「入ってくれ」と願った。が、願いは届かなかった。そこを谷内は「勝負弱さがでた」と振り返っている。

長身のアタッカー

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――ダーツプレイヤーになっていなかったら、何をしていましたか?

 谷内太郎は、S-DARTSのホームページに掲載されているインタビューに、「レストランバーの店長」になっていたと思う、と答えている。

メンズクラブのモデルのキャリアを持つ谷内はどのような曲折を経て、ダーツプレイヤーになったのか。

谷内は1975年11月、石川県能登地方の生まれ。実家は商家で2人の姉に可愛がられて育った「普通の大人しい子」だった。

父親の方針で小学校に入学した頃から中学2年生ごろまで、毎日朝と夕方に書道塾に通った。中学の部活は書道と両立できる卓球。高校に入学すると、「中学3年と高校1年で10センチずつ伸びた」という長身をかわれ、バレーボール部で汗を流した。

長身から打ち込むスパイクが大学関係者の目に留まり、スポーツ推薦で近畿大学に進学した。当時の近大はバレーボールの強豪。レギュラーには定着できなかったが、バレーに明け暮れた4年間が谷内のスポーツ選手としての基礎を作った。

メンクラのモデル

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大学卒業後、バレー部の同期のほとんどがVリーグや実業団のチームに就職する中、谷内は東京のモデル事務所の門をたたいた。周囲に勧められて「その気になった」のがきっかけだった。

モデル事務所に就職、といっても基本給がある訳ではなく、給料は歩合制。「とりあえず3年はやってみよう」。そう決意して、ホテルの配膳のアルバイトをしながらチャンスを待った。1年目は雑誌と広告の仕事が2本あっただけで、年収は8万円しかなかった。

が、2年目以降は順調に仕事が増えた。メンズクラブやゲイナーなどメジャーのファッション誌から定期的に声がかかるようになった。ショーや広告の仕事も入るようになった。

アルバイトは朝が早かったホテルの配膳係からレストランバーに。仕事やオーディションが入ったら休ませてもらえる待遇も得た。広々としたレストランで、ビリヤード台が置いてあった。

数年が過ぎた。モデルはいつまでも続けられる仕事ではない。モデル仲間は次のステップアップを夢見て、ドラマや映画、コマーシャルフィルムのオーディションを受けていた。谷内も何度か挑戦してみたが、もともと人前でしゃべるのは苦手で演技にはまったく自信はない。自分に俳優は無理。モデルとレストランの仕事をしながら、次のことを考えなければならない時期に差し掛かっていた。

そんな日々を過ごしていたある日、アルバイト先のレストランバーに、ソフトダーツのマシーンが入った。同僚と一緒に遊んでみた。「なかなか面白いね」。モデルの仕事を始めて4年目の秋。26歳のときだった。

それが、レストランバーの店長になろうかと考え始めていた自分の人生を変える出会いになるとは、知らなかった。

(つづく)


次回は4月13日更新予定
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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。