COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2014年3月3日 更新(連載第28回)
Leg6
「ファイター」という称号を纏った一人の男、その戦いのバラード
今瀧舞

Leg6 浅田斉吾(5)
兄と弟

浅田斉吾には7つ年上の兄がいる。浅田剛司。斉吾がダーツを始めたとき、兄はダーツの世界ではすでに有名人だった。関西では星野光正と肩を並べ、バレルメーカーからは浅田剛司モデルが販売されていた。ダーツバーを経営し、ローカルテレビ番組にも出演する。ソフトダーツにまだプロがない時代だった。

斉吾にとってその兄は「怖い」存在だった。煙たいと言ってもいい。上下関係は厳格で話すときは敬語。一緒に飲みに行くこともなかった。

しかし、剛司はダーツプレイヤー浅田斉吾の誕生に多大な影響を与える。剛司なくして、今の斉吾はなかった。

兄に導かれたダーツ人生

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高校卒業後、斉吾は外国車の販売会社に就職した。ラグビー日本一のロックは、20を超える大学から勧誘を受けたが進学しなかった。

高校時代、上下関係の厳しい精神主義に鍛えられた斉吾は、大学では知的なラグビーができると夢見ていた。が、進学を考えていた大学に練習に行ったとき、信じられないことが起こった。心ない部員からの金銭の要求だったという。斉吾は大学ラグビーに失望し、別の道を選んだ。

就職した会社の社長は病院を経営していた。斉吾の経歴を知ると、「車より人の体の勉強を」と勧められた。社長が経営する整骨院で見習いをしながら、専門学校に通い国家試験を目指すことになる。

ダーツと出会ったのは、専門学校の最終年だった。整骨院の見習いをして、夕方からの学校に通いながら毎日10時間のダーツ。寝る間もない毎日だった。

斉吾が驚愕のスピードで上達を遂げたことは、2章ですでに触れた。ダーツを始めた頃、兄には内緒にしていた。しかし、狭い世界のこと。大会に出場すればいずれ話は伝わる。初めて出場した名古屋でのトーナメントの前に、剛司にダーツを始めたことを報告した。

以後、斉吾のダーツ人生は兄に導かれていくことになる。好むと好まざるによらず、どこに行っても「浅田剛司の弟」と見られる。兄の名誉を傷つけないために、不細工なことはできない。やるからにはトップを目指さざるを得ない。そして、それがアスリートの性なのか、斉吾は「やるからには、兄貴より絶対に強くなる」と心に誓う。「兄貴に恥をかかせない」と「兄貴に絶対勝ってやる」。この2つの強い気持ちが、トッププレイヤー・浅田斉吾の産婆役を果たした。

真面目な努力家

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「ダーツを始めて3カ月の凄い奴がいる」。ダーツを始めた06年の年末、斉吾は東京で開かれたダーツイベントに出場した。そこで、自分の弱さを知る。「緊張する」「知らない相手と対戦すると弱くなる」…。もっと経験を積んで強くなりたい。翌07年には、日本初のプロソフトダーツツアーPERFECTの開幕が決まっていた。自分も参戦したい。斉吾はダーツのプロになることを決意した。

そのような言い方は、浅田斉吾に対して大変失礼だし、だから、失礼を承知で書くのではあるが、お話を伺っていて意外に思ったことがいくつかある。「怖い」と警戒していたら、拍子抜けするほどの好青年との印象を受けたことは、前にも触れた。もう一つは、とても真面目で努力家であることだ。自分で決めたことは、途中で投げ出さずやり通す。筋の通らないことは決してしない。

ダーツのプロになると決意したとき、斉吾は専門学校生で、整体師の国家試験を目指していた。人生の方向転換である。青年期にはよくあることで、批判されるようなことでは全然ない。私が意外に思ったのはその先である。話の流れから、専門学校を中退し、国家試験も諦めたのだろうと想像していた。ダーツのプロになるのに整体師の資格はいらない。簡単に合格できるなら取得して損はないが、相当の努力を要する。私なら学費を出してくれた親に心中両手を合わせて投げ出してしまうであろう、と思った。が、斉吾は違っていた。

国家試験が近づくと、ダーツの練習を1日5時間に減らし勉強に力を入れた。そして、見事に両立させ国家試験に合格。けじめをつけて、ダーツの世界に飛び込んだ。

兄を超えた日

斉吾のダーツの基本は独学。師匠はいないが、もちろん、先輩たちから教えを受けることはあった。が、兄から直接ダーツの手解きを受けたことはない。「絶対勝ってやると思っていましたから、教わりたくなかったんです」と弟は言う。とは言え、関西で斉吾が教えを受けた先輩たちは、誰もが剛司の後輩。弟は兄から教えを受けた人たちからダーツを学んだ。

剛司とのプロでの初対戦は、PERFECT初年度の07年富山。予選ロビンで同じ組になり実現し、斉吾が勝利した。同じ組には皇帝・星野も。斉吾はロビン落ちし、剛司は決勝トーナメントに進んだ。直接対決では勝ったが、トータルでは負け。が、嬉しかった。ダーツを始めてわずか1年で、有名人だった兄に勝った。以後、早熟の弟は驚愕の勢いで兄を超えて行く。

100円稼ぐ苦しみと100円の価値

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斉吾に剛司について訊ねた。「一言で表せない部分もありますけど。感謝してます」と、感慨深げだった。「ここまで育ててくれたし、道も作り、機会も与えてくれました」。剛司がいたからこそ、ダーツを始めて間もない斉吾はイベントに招待され、ビッグネームと親交を持つことができた。そうした環境が、斉吾の類稀な才能を促成栽培させた。

厳しい一面もあった。ダーツには金がかかる。1ゲーム100円。1日10時間も投げれば数千円が飛んでいく。上手くなる早道は無償で使える環境を持つことだ。小野恵太はアルバイト先のダーツショップで練習し基盤を築いた。

ダーツバーの経営者を兄に持つ斉吾は、環境には恵まれていたはずだった。が、兄は弟を甘やかさなかった。

07年シーズン。斉吾は、昼に電気工事のアルバイトをしながらダーツの練習に明け暮れた。夜は兄のバーを手伝う。しかし、店の他のスタッフには自由にマシーンを使わせる兄が、弟からは客と同じ使用料をとった。バーのバイト代は格安の月2万円。ダーツ代は月20万円。電気工事のバイト代がほとんど消えた。

弟は兄が口癖のように言うのを何度も聞いている。「俺の弟なら強くなって当然って、言われるやろ。でも、俺は金を出してないよ。教えてもいない。斉吾は金も自分で出した。100円稼ぐ苦しみを知ってるし、100円の価値も知っている。それが斉吾が強くなった原因や」

弟も当時を振り返って言う。「僕は1日1万円とか何千円のバイト生活の中で、1ラウンドでも1本でも無駄に投げたくないと、色んな事を考えながら投げていました。100円の大事さみたいな所で、粘り強さが出たのかなと思います」

もちろん、厳しかっただけではない。バイト料は2万円だったが、PERFECT参戦の遠征費は店が補助してくれていた。「怖かった」兄の愛情を受けて、弟はさらに高みへと登っていく。

07年年間ランク8位、08年11位、09年4位、10年9位、11年11位。そして12年、斉吾は大きな飛躍を遂げる。

(つづく)


次回は4月13日更新予定
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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。