COUNT UP!

COUNT UP! ―― PERFECTに挑む、プロダーツプレイヤー列伝。
―― PERFECTに参戦するプロダーツプレーヤーは約1,700人。
彼ら彼女らは、何を求め、何を夢み、何を犠牲に戦いの場に臨んでいるのか。実力者、ソフトダーツの草創期を支えたベテラン、気鋭の新人・・・。ダーツを仕事にしたプロフェッショナルたちの、技術と人間像を追う。
2015年4月13日 更新(連載第55回)
Leg12
I’ll be back! PERFECTという場に、そして再び栄光の玉座に
山田勇樹

Leg12 山田勇樹(3)
強運伝説

山田勇樹は自らを「強運の男」と評す。

 PEERFECTで“順風満帆”の歩みを歩いて来られたのも、山田に言わせると「運が強かった」からだ。

野球少年だった小学校時代、九州大会決勝の延長戦で勝ち越し満塁ホームランを打った。野球に没頭した中学時代には、秋から受験勉強を始め、「絶対に無理」と言われた名門、県立熊本高校に合格した。ラグビー一色だった高校時代には、3年生の11月から受験勉強を始めて、国立大学に現役で合格した――。強運の話を始めると、山田の話は尽きることがない。

九死に一生

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がんには、おとなしくて転移が遅い分化がんと、素早く転移する性質の悪い未分化がんの2通りがあるという。

山田の胃を蝕んでいたのは、転移が早い未分化がんだった。発見が遅ければ、若い肉体に巣食ったがんは猛スピードで広がり、命にかかわる状況になっていた可能性が高い。

31歳でがんを患うことを強運と呼べるかどうかは別として、もし、がんが山田には避けられない宿命だったとすれば、その「宿命のがん」を早期に発見し、比較的簡易な手術で取り除くことができ、転移も見つからなかったことは、山田の「強運伝説」に最大の1項目を加える出来事だった。

もし2014年初めにフェリックスを退社し独立していなければ、もし妻が独立の祝いに人間ドッグを申し込んでいなければ、もし山田が妻のプレゼントを素直に受け入れすぐに健診を受けていなかったら…。どのもしが欠けていても、PERFECTの年間王者奪還を目指す、今の山田の姿はなかった。奇跡と言って過言ではない早期発見で、山田は文字通り九死に一生を得た。

立ちはだかる貴公子

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強運でがんを克服した山田は、手術から僅か26日でPERFECTに復帰。復帰5戦目の第9戦GⅠ横浜大会で決勝の舞台に立った。

対するは知野真澄。2012年に惜しまれながら消滅したプロソフトダーツトーナメントD-CROWNの最後の年間王者で、その端整な顔立ちから「D-CROWNの貴公子」と呼ばれた人気プレイヤーだ。が、12年シーズン途中にPERFECTに移籍してからは精彩を欠き、忘れられた存在になりかけていた。

しかし、14年シーズンに入るとその実力を発揮し、山田が復帰した第5戦と次節の第6戦で3位タイに入賞した後、第7、8戦で連続優勝を遂げ、年間総合王者レースのトップに踊り出ていた。

山田の完全復活か、知野の3連勝か――。注目を集めた決勝は、山田の1セット先取で第2セットに入り、両者キープで最終レグを迎える。山田がブレイクすれば優勝が決まる。

ZOOM UP LEG

2014 PERFECT【第10戦 横浜】
決勝戦 第2セット 第3レグ「501」

知野 真澄(先攻)   山田 勇樹(後攻)
1st 2nd 3rd to go   1st 2nd 3rd to go
T20 T20 T20 321 1R 20 T20 T20 361
20 T20 T20 181 2R 20 20 T20 261
20 T20 T20 41 3R T20 20 20 161
9 16 D8 0
WIN
4R
T=トリプル D=ダブル

第1R。キープしなければ試合が終わる先攻の知野は、TON80スタート。知野の投擲を確認した山田は、「(知野の)ナインダーツはない」と考え、第3Rを終えた段階でTO GO 161以下にすることをイメージして、スローラインに向かう。1投目はシングルとなるが、2、3投目はトリプル20におさめ140Pを削った。

第2R。知野の1投目はシングル20。山田のイメージ通り、知野のナインダーツはなくなる。が、知野は2、3投目をトリプルに捩じ込み、山田を追い詰める。山田は1、2投目をシングル20に外し、残り261P。181Pの知野と80Pの差が開いた。

第3R。知野が再び140Pを削り、TO GO 41。山田はTONでTO GO 161。イメージ通り、ぎりぎり161P以下として、ワンチャンスを待った。

が、知野は隙を与えない。第4Rの1投目をシングル9にアレンジ。ダブル16をターゲットとした2投目のセットショットはシングルとなったが、3投目をダブル8に沈め、セットカウントを1-1とする。

2014年シーズン第9戦横浜大会の決勝はフルセットに縺れ込んだ。

満塁ホームランと珍記録

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山田は1983年、熊本市の生まれ。生家は熊本高校のすぐ近くにあり、両親は理髪店を営んでいた。一人っ子の山田は利発で活発な少年で、小学校時代は6年間皆勤賞。小学校4年生から始めた野球で頭角を現し、6年生のとき、九州大会で優勝している。

県大会では3番ライトで出場するも、極度の不振で、九州大会では6番に降格。が、その決勝戦の延長戦で満塁ホームランを放ち、チームの優勝に貢献した。強運伝説の始まりである。

中学校時代も野球に没頭し、3年生の時には主将を務めた。そして、中学時代の強運伝説は、部活を引退した夏休み明けに始まる。

熊本では、中学3年の2学期の初めに県下一斉の共通テストがあり、その成績が志望校決定の指針となる。山田の成績は平均点前後だった。

山田の志望校は生家の目と鼻の先にある、最難関校の熊本高校。小さな頃から両親から「熊高に行け」と言われていた。が、担任は「過去にこの成績で受験すると言った生徒はいない。絶対に受けさせない」とにべもない。

しかし、「無理だとは思わなかった」という山田は、志望校の変更は受け入れずに秋から猛勉強し、見事合格。「中学の歴代熊本高校合格者の中で共通テストの成績が一番悪かった生徒」という珍記録を作ってしまう。熊本高校に合格したことは、その後の山田の人生にとって大きな意味を持つことになる。

受験勉強3カ月で国立大合格

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高校時代はラグビーに熱中。2年の時には県でベスト4まで進み、花園(冬の全国高校選手権大会)を目指し3年生の11月までラグビーを続けた。県下トップの進学校にいながら、受験勉強とは無縁の生活だった。

が、大学入試でも強運伝説は続く。
 「現役で国立大学へ」。高校の3年間、真面目にコツコツと受験勉強を続けてきた生徒が聞いたら、笑うか怒り出すかしそうな目標を立て、11月以降、山田は受験勉強に突き進む。この時も、生来のオプティミストぶりを発揮し、無理だとは思わなかった。

無謀な目標を立てたり、周囲が呆れてしまうほど楽観的だったりする人は、さほど珍しくはない。が、山田の凄いところは、無謀で楽観的なだけではなく、周到に戦略を立て、戦術を練り、未来を信じてその無謀な目標を達成してしまうところだ。

高校3年生の山田は考えた。授業を聞いても全然分からない自分の学力では2次試験のある大学は無理。が、センター試験なら、記述式ではなく解答選択式だからなんとかなるかもしれない。

志望校はセンター試験だけで合否が決まる大学と決め、受験に必要な5教科5科目の教科の先生に頭を下げ、授業時間外にセンター試験用の対策や問題の解き方のコツ、裏技などの指導を受けた。科目を選択する理科は地学、社会は地理と、センターで高得点が取りやすい科目を選んだ。

そして「死ぬほど勉強した」という3カ月後、センター試験を受験。自己採点の得点で合格できそうな大学の中で、一番難易度の高かった首都圏の国立大学の経営学部経営学科を志望し、目標通り、僅か3ヶ月の受験勉強で国立現役合格を果たした。

先回りをして、山田勇樹物語を進めてしまえば、山田は大学を実質数カ月で中退し、別の道に進む。ダーツと出会うのは、その道の途中のこと。そして、山田の人生はダーツと寄り添うことになる。もちろん、強運伝説は続く。

(つづく)


次回は4月13日更新予定
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○ライター紹介

岩本 宣明(いわもと のあ)

1961年、キリスト教伝道師の家に生まれる。

京都大学文学部哲学科卒業宗教学専攻。舞台照明家、毎日新聞社会部記者を経て、1993年からフリー。戯曲『新聞記者』(『新聞のつくり方』と改題し社会評論社より出版)で菊池寛ドラマ賞受賞(文藝春秋主催)。

著書に『新宿リトルバンコク』(旬報社)、『ひょっこり クック諸島』(NTT出版)などがある。